四十にして惑わず。

ネットで検索するとほとんどこれを「迷わない」こと、と解釈されているのですが、「迷わず」ではなく「惑わず」です。

似ている言葉にはこだわりたいので、以前も「迷い」と「惑い」の違いについては考えました。それから2年近く。やはり答えとしては「平常心を保つこと」ですね。

ひとつより鮮明に分かってきたことは、「諦め」「期待しない」ことで、これは楽に達成できるということですね。何事も”どうせ”と思えば、どんなことでもさざ波を立てることすらなく、やり過ごせるということです。大人になるとでも言えるのでしょうか。肉体的にも過激な運動を欲しなくなってきていますから、外から見れば穏やかにも見えます。

しかし、外界と大きな隔たりをつくって、少しの波紋も起こらないようひたすら無の境地でいることを望むことと、日々の活発な活動がもたらす、荒ぶる高波や荒れ狂う雷雨の雲海のその上、成層圏を穏やかに飛ぶ航空機のようにいる心境とでは、それこそ天地の隔たりがあるなと思いました。

当然前者のような生活ができるわけもなく、諦めとは無縁の何事にも期待の多い仕事環境で、そこからさらに新領域に突入しようと思っているわけですから、活動すればするほど心境・環境の激変に遭遇しています。

平常心を保つための具体的ソリューションとして、2年前に「おいあくま」を知ってから、念仏のように唱えていましたが、どうもそれだけでは足りないようで、さらに高高度を保っていくために、エンジンや機体や航法、運行システムの改良が必要なようです。

しかし、最近はそう考えながらも、そうやっていちいちクソ真面目に対処方法ばかり考えているからいつまでも問題が無くならいのでは?と、自身がそんな暴風雨を吹き飛ばすほどの、さらに大きなスーパーハリケーンになってしまえば話が早いのではないか?とも思えてきました。

「惑わず」とは奥が深い話です。四十半ばにしてまだわかりません。

長く書きましたが夫婦喧嘩の話です。

もしかして”オレ様”に制限をかけていることが間違っているのかも。